
科学が全盛期を迎えて100年以上が過ぎました。科学が常識になったのは、それほど古い話ではありません。19世紀にはまだ、科学に対する警鐘を鳴らす知識人もいました。
もはや伝統的な技術は科学の審判を仰がなければならなくなりました。科学のお墨付きがなければ、公的な存在として容認されない世界になったと言えます。それでも、魔術に関する知識が巷に溢れつづけています。
それらは単純にロマンティックな想像の世界として捉えるべき状況でしょうか。あるいは全時代の残りかすが、掃除しきれずに部屋の隅に舞っていると理解べきなのでしょうか。そんな妄想をしながら、子供の頃に魔術の魅力に惑わされた一人として、調べてみたくなりました。
科学的である理性が、魔術的要素を人に欲望させるという驚きの事実
本当なら科学は魔術を駆逐することができません。少なくとも科学は多くの分野で極めて有効に活用できると証明されてきました。魔術などの妖しさが忍び込む余地はありません。
明晰で扱いやすいのが科学の特徴でしょう。しかし、科学の弱点は切り分けることそのものにあります。科学的に取り扱うために、取り扱う領域を条件で制限します。そうすると特定の部分には当てはまるが、そうではない部分を残します。
ほとんどの場合、工場で生産された大量生産品の衣類は個人に合わせた調整が必要です。それに対して、個人的に仕立てた衣類は、できあがりと同時にぴったり着用できます。言い替えれば、科学は大量生産によって低価格化を可能にしましたが、ほとんど誰の身体にもぴったり合わないわけです。
この違いが、科学と魔術との違いにとても似ています。工場生産が科学的とすれば、仕立て仕事は魔術的です。
世界が制度的であるなら、魔術的要素が必要になり欠かせないものに
人が農業に従事するようになった原因は飢饉だったとする説が提示されています。気候変動によって栽培しなければ必要な食料をまかなえなくなったのです。事実、遺跡にある植物の栽培の跡は、時代を遡れば消えます。
原因の当否はともかく、農業が集団生活を要求し、集団生活は厳格な制度を必要とします。生産の効率性を考慮しなければ、せっかくの労働の対価が得られなくなってしまうからです。制度は社会集団のルールであって、経済的効率を追求します。
残念ながら、どのような制度であっても、社会が必要とするすべての必要に応えるのは不可能です。人が農業に従事するようになって以降、社会に生じ続ける制度の不備への解決を必要としてきました。高度に制度が整備された現代社会を見回しても、制度では対処できない問題が山積になっています。
対応しきれない問題に応える技術や知恵を魔術として括ってきたのではないでしょうか。制度に取り残された人々が担った知恵は、時としてある程度の普遍性を持つに至ったと想像できます。一部は普遍性を獲得できずに、失われていったのは当然でしょう。
ただし、その普遍性には程度の問題が残ります。これに気づかないと魔術の評価を誤ってしまうでしょう。社会制度に対峙するように生成され保存されたのが魔術であるなら、社会制度や文化の変化で効果を失うはずだからです。
できるかぎり古代に遡って、その時代の魔術から、現代魔術へと一体何が継承されてきたのかを確認しなければなりません。古代から変化しないのは定型に収まらない人間のさまざまな生活です。