魔法なんて非科学的迷信だ!でも無視できない現実がここにあります

魔法なんていう言葉をうっかり使ってしまうと、良識的な人たちから眉をひそめられたり、妖しい人だと指弾されたりするのが、現代日本の常識でしょう。最近はネット社会でも、この言葉を使う人たちを一種の病気であるかのように扱う気分も感じられます。

しかし、少なくとも個人的には子供の頃から強い関心を持ち続けていますし、それなりに価値と意味とがあるように思っています。確かに非科学的ではないとか、迷信だという主張はよく聞かされますが、そのような指摘をそのまま受け入れることができません。

一番に魔法なんて科学的ではないと言いますよね。自分でもどこかでそんな風に感じているのを知っています。でも科学的ではないというのはどういうことなのか、今ひとつはっきりしないのも事実です。科学的であるのが正しくて、そうでないものは誤りだというのでは、明治時代初期の科学に対する理解レベルと大差ない。

科学的であれば、誰にでも扱えるというニュアンスを私たちは持っているのでしょう。科学的アプローチなんてタイトルが付けられると、自分にもできると感じてしまうのではないでしょうか?このように科学的という言葉にはある種のニュアンスが潜んでいます。

例えば科学的であるというのは、実証性とか再現性と呼ばれる性質を意味します。実証性があれば、現象と結びついた事実であるという意味になるでしょうし、再現性があるなら、実験と同じ結果を期待できると考えられます。

しかし、科学的であることは誰にでもできることを意味しません。実証的であり、再現性がある現象は科学的に扱えるとしても、さまざまな条件が前提されているので、誰にでもできるというのは別の事です。

有名シェフの手に掛かると料理が美味しくなるというのは、実証的であり、再現性もあるでしょうが、誰にでも同じ事ができる保証などありえません。むしろ誰にでもできない所に価値があるといえます。

そういう反論をすると次に科学的であることは合理的であるが魔法、魔術などは合理的ではないという主張がなされます。魔術は非合理だから無視すべきだというのです。冷静にこの主張を見れば、凄く乱暴な主張だとわかるはずです。

人間の合理には限界があり、世の中は非合理に満ちているからです。非合理だからといって、無視しても良いというのはとても乱暴な考え方でしょう。魔術が非合理でも必要なものかも知れませんよね。

その他に魔術は秘密主義であるという非難があります。魔法、魔術は公開されていないからです。しかし、科学でもすべてが公開されているとはいえません。隠されている部分は魔術にも科学にもあるのです。

さらに魔術は複雑すぎると言いますが、その通りでしょう。さまざまな要素を含んでいるので複雑です。なので意味が分からないという結論は妥当のように思えます。でも魔術は紀元前から存在していて、時代ごとに適応しながら存在しています。そして現代でも世界中に広がりだしています。

私たちに意味が不明でも無視できません。それに意味がないとは断定できないでしょう。世界には支配者と被支配者の圧力が絶えず存在しまます。被支配者たちは独自の生活文化を創出してきたのです。支配とは制度的なものであり、制度は世界の一部に過ぎません。

現代の至る分野で魔術を扱い始めたという事実は、制度の限界があからさまになってきた社会的事実と無関係ではありません。固定化する社会階層、経済的な抑圧など例を挙げるまでもないでしょう。

それでも、これからもよりよく生きるために、既存制度以外の方法を必要とするのであって、それが世界中で増えてきている魔術・魔法を復興する人たちの原動力なのです。