これを知らないと意味不明!押さえておくべきウィッカの思想背景はこれ

ウィッカは人を呪うのではなく、自然を崇拝すると主張しています。でも背景を共有できていない私たち日本人には、それがどれだけ重要な宣言なのか見当もつかないように思えます。彼らが主張しているのは、歴史を通じて魔術とされてきたものと明確な一線を画することを意図しているようなのです。

それでは古代からの魔術とは何が異なるのか?これに答えるのは一筋縄では破綻するでしょう。日本とはまったく異なるイメージが醸成されてきた歴史を背景に持っているからです。

例えば五芒星には意思による世界対峙という深遠な意味が込められています。五芒星は下部に位置する4点からなる図形の上に1点が加わった形として理解されます。下部の4点は世界を構成する4元素、火、風、水、土や東西南北を意味します。それをコントロールする意思が上に位置づけられたものだと考えます。

彼らの主張によれば、彼らは悪魔を崇拝するのではなく、古代の神々を信仰するそうです。特に女神に帰依するのは、女神の原型が地母神である産出に関わる神々だと考えられている要素が大きいでしょう。ウィッカは自然に備わる産出能力にあやかりたいのです。

レベルの低い魔術で悪魔を呼び出したりするのではなく、彼らが行うのは儀式魔術であって、それが高等魔術なのは理由があります。儀式は一部の天才が確立した方法を真似ることで、一定の効果を求めるための方法論です。また独創性が抱えるリスクを回避できるという意味では確かに高等魔術なのです。

このような慎重な形態は魔女たちが経験した歴史に根ざして、同じ失敗を繰り返さないように考えられているように思います。クラーマーによる『魔女に与える鉄槌』は1486年でしたが、これが時代の雰囲気と相乗効果を発揮して、ヨーロッパを魔女狩りという狂気が吹き荒れたりしたからです。

古代からの大きな潮流であり普及しているグノーシス主義は、自己変容を目指したギリシア神秘主義のひとつだと考えられます。キリスト教の異端ではないのですが、一部のグループに大きな影響を与えたことから、排斥された歴史があります。

ウィッカが求める自己変容の本質はグノーシス主義的だといえるわけです。現在の自分が不完全であり、別なあり方への超越が求められているという意味で同じ衝動に動かされているといえます。

その後、ネオプラトニズム-プロティノスによって人を魅惑する光が明らかにされたのですが、ネオプラトニズムの語り口が分かりにくいからでしょう、思想は神秘主義の色合いを強めていき、魔術的になっていきます。

近代以降に姿を現したヘルメス主義はそれまでの神秘主義的な哲学的・宗教的思想の総称となります。そこには占星術、錬金術、神智学、自然哲学を整理して再構成した感じがあります。

20世紀後半にニューエイジと呼ばれる自己意識運動もまた、グノーシス主義的である点でウィッカと親和性が高いく、宗教的・疑似宗教的な潮流であり、内側からやってくるスピリチュアルな真実を求めます。この場合、自分自身が神になるという自己啓発の神秘主義といえるでしょう。

ウィッカを他のグループと区別する最も大きな点は、古代神を信仰するところです。彼らはそれゆえに倫理性を維持し、儀式を体系立てるのが可能になっています。彼らに古代の神に関するイマジネーションを提供している資源には大きく2種類あるようです。

それはケルト神話とゲルマン神話だとされます。これらは西洋中世を支配したキリスト教思想の影響に対立するものとして定義されながら、古典史料の復元のためにローマ・キリスト教の文献が重要な役割を果たしているのは皮肉な状況です。

海外に広がっているらしい?「ウィッカ」と名乗っているこんな人たち

インターネットを検索すると「ウィッカ」に関する記事の量が増えてきたようです。自らをウィッカとして内容を紹介しているところもありますし、総論的に語るところもあります。おおむねまとめると魔術を指向した妖しい新宗教として紹介されている印象が強いようです。

有名メーカーにはブランド名に採用していたりします。言葉の響きがなんとなくおしゃれだからでしょうか。確かに調べているとウィッカはエコロジー、ファッション性を現代の特徴として扱っているようです。

同時に内容を見るとき、古代宗教のリバイバルとしてのウィッカといった側面が見られます。最近になってネット上に情報が増えてきましたが、数年前まではほとんど何も手がかりがない状態でした。自称ウィッカたちは自らの正統性を確保するために歴史の命脈を古代に遡る傾向を持っているみたいです。

その意味では現代によみがえった魔女術の集団と考えられるかも知れません。古代からの伝統に正統性を求めるために、なんとなく妖しさが漂うのは仕方がありません。例えば、悪魔と契約を交わしているのではないのかとか、黒魔術で人を呪っているのではないかなどはよく質問されることです。

同時に民族主義と結びついた民間信仰の再編成だと解説している冷めた見方もあります。冷めたというのはそのムーブメントなりに、ありきたりの逸脱現象であって何も期待できないという立場からの表明に聞こえるからです。

ウィッカを排斥する構造はいじめの構造に似ているようにも見えます。自分たちとは何かが違うとして、仲間から区別して排除するパターンが共通します。そのような行動を根拠づける見方の基礎に、相手が無価値であると考える下地があるように思えるのです。

それでも魔術は何の役に立つのか?という問いは難問でしょう。何か特定の具体的効果が一定の成果を上げなければ、認めない実験室主義的な考え方が私たちに染みついてしまっているからです。

例えばお金が儲かると言ったなら、一定の金額以上、同時に一定の金額以下の範囲を前提して評価する傾向があります。1円では認められないでしょうし、10億円だと疑われる結果にしかならないのです。結局人間は自分で想定した合理的な推論によって考えられる枠の中に生きているといえます。

極めてファッショナブルに飾られた現代的なウィッカですが、古代の魔術から受け継いでいる部分もあります。自己変容への憧憬は依然と変わらない目標であり続けています。

それは古代から消滅しないで維持されてきたイマジネーションです。あるいは欲望の他力本願だともいえるでしょう。どのように言葉を尽くそうがそれが人間の思いに根ざした本質であることを偽れません。

活動の特徴から考えれば、女神を中心とした多神教であり、さまざまな思想体系から引用して組み立てられた儀式を小グループによる活動で行います。それは確かに現代的に既成化した宗教へのアンチテーゼでしょう。

古代の魔術を現代的に造り直して活動するコミュニティです。一人ではなくごく親しい仲間に向かう思いもくみ取れます。SNSなどで拡大してしまった現代に特有の不都合への応答であるということになります。

科学至上の合理的考え方に対する閉塞感が背景にあります。勢力を持つ既成宗教が排斥してきた存在への期待の表れともいわれます。歴史的に表舞台に立ち続けてきた西洋キリスト教主義に対しての失望が生み出したとも言います。

ですから、人を呪うためではなく、悪魔との契約ではなく、彼らは自らを大自然を崇拝し、女神を崇拝すると主張しているのです。女神とは太古から生産のシンボルとして理解されてきたからです。

知らないと損?少女の心をつかんで離さない!恋愛成就の魔術の具体手順

子供の頃、だれしも憧れたものに恋愛成就の魔法を挙げられます。周囲の女性にインタビューをしましたが、やはり小学生、中学生の頃は少女雑誌に掲載される魔術アイテムに強く惹かれた記憶があるようでした。

まるで子供だましのようなものから、何度も密かにブームになったともいう「引き寄せの法則」のようなものまで、魔術にはさまざまなレベルのものが案出されているのが、現代の特徴です。

しかし、魔術が世界に働きかける要素を持つ限り、それは何らかの効果をかつては持っていたと考えるべきだと思うのです。つまり完全に効果がないものと断じれないのが魔術であって、むしろ何故か効果が期待できると感じてしまいます。

今回は古代魔術の系譜を継承しているウィッカによる本物の魔法の手順を紹介することにしました。ウィッカン(ウィッカの人)たちは古代魔術の継承者だと自認し、儀式に創意工夫を凝らし、一種の雰囲気を作り上げています。

実際に手順内容を紹介することでウィッカたちがどのような実践をするのかが具体的に分かるだろうと期待できます。そこで彼らが紹介している永遠のテーマである「愛の魔法」を取り上げて、呪文、儀式、ポーションのガイダンスを解説します。

まず、適切な用法を守り、魔女の信条を破戒しないことが求められるので、実際に儀式を執り行う前の大前提の質問は魔女の信条を冒さないかという問いかけです。このために魔術を執行するか取りやめるかを考えるための質問が二つあります。

まず「この魔法を実行する意図は何か?」そして「怒り、憎しみ、怒り、貪り、嫉みなどの影響を呪文や儀式は受けていないか」という二つの問いですが、この問いは連関構造になっていて、1番目の問いと2番目の問いがお互いの答えとして向かい合っています。

魔術の意図が2番目の問いに見つかるなら、この魔法を用いてはならないとされ、魔術の目的が2番目の問いであるなら、もはや正しいウィッカンではないとされます。真実のウィッカンはマジックを他の個人に悪影響を与えるために用いないからです。

すべて魔術の道は自然な命のリズムと調和しバランスを図るために用いるので、ひとたび利己的な目的で解放されたネガティブな力は命と形と物質とを要求することになります。それは一定の経路を通り抜けて、最終的に望まない形で因果の法則に従う。

自分だけの呪文を作り、エネルギーを相手に対して放出する。魔法の原則によって、相手は絶望的な恋愛感情に捕らえられる。彼らはひとときも欠かさず貴女を必要とするので、あなたはひとときも自由にならなくなる。貴女のすべてを所有し尽くすことはできないので、彼らは徐々に嫉みやすくなり、支配的になり、疑い深くなっていきます。

という警告があって、もしふさわしい相手がいなければ、次のような魔術の手順に従います。まず理想的な相手はどのような人なのだろうか。できるかぎり具体的にまた詳細にリストアップします。

それにふさわしいハーブ、オイル、儀式を行うために必要な道具を集めます。ラベンダーオイルは汎用的多用途に使用できる便利なオイルで初心者向きでしょう。ハーブのお勧めは、「アロエ」「リンゴ」「バジル」などの利用がよさそうです。儀式を行うための道具は、祭壇、ダガー、ろうそく、聖腕などで、日本にもある専門店で入手可能です。

自分の人生に引き込むべく理想的な人を強くイメージしつつ、儀式を執り行います。何度も継続的に儀式を行います。他の魔法と同じように、効果が表れるために時間と集中とエネルギーが必要です。そして自然に魔法のために働く時間を与えましょう。

ウィッカンの魔術は決して即席ではないようです。

魔法なんて非科学的迷信だ!でも無視できない現実がここにあります

魔法なんていう言葉をうっかり使ってしまうと、良識的な人たちから眉をひそめられたり、妖しい人だと指弾されたりするのが、現代日本の常識でしょう。最近はネット社会でも、この言葉を使う人たちを一種の病気であるかのように扱う気分も感じられます。

しかし、少なくとも個人的には子供の頃から強い関心を持ち続けていますし、それなりに価値と意味とがあるように思っています。確かに非科学的ではないとか、迷信だという主張はよく聞かされますが、そのような指摘をそのまま受け入れることができません。

一番に魔法なんて科学的ではないと言いますよね。自分でもどこかでそんな風に感じているのを知っています。でも科学的ではないというのはどういうことなのか、今ひとつはっきりしないのも事実です。科学的であるのが正しくて、そうでないものは誤りだというのでは、明治時代初期の科学に対する理解レベルと大差ない。

科学的であれば、誰にでも扱えるというニュアンスを私たちは持っているのでしょう。科学的アプローチなんてタイトルが付けられると、自分にもできると感じてしまうのではないでしょうか?このように科学的という言葉にはある種のニュアンスが潜んでいます。

例えば科学的であるというのは、実証性とか再現性と呼ばれる性質を意味します。実証性があれば、現象と結びついた事実であるという意味になるでしょうし、再現性があるなら、実験と同じ結果を期待できると考えられます。

しかし、科学的であることは誰にでもできることを意味しません。実証的であり、再現性がある現象は科学的に扱えるとしても、さまざまな条件が前提されているので、誰にでもできるというのは別の事です。

有名シェフの手に掛かると料理が美味しくなるというのは、実証的であり、再現性もあるでしょうが、誰にでも同じ事ができる保証などありえません。むしろ誰にでもできない所に価値があるといえます。

そういう反論をすると次に科学的であることは合理的であるが魔法、魔術などは合理的ではないという主張がなされます。魔術は非合理だから無視すべきだというのです。冷静にこの主張を見れば、凄く乱暴な主張だとわかるはずです。

人間の合理には限界があり、世の中は非合理に満ちているからです。非合理だからといって、無視しても良いというのはとても乱暴な考え方でしょう。魔術が非合理でも必要なものかも知れませんよね。

その他に魔術は秘密主義であるという非難があります。魔法、魔術は公開されていないからです。しかし、科学でもすべてが公開されているとはいえません。隠されている部分は魔術にも科学にもあるのです。

さらに魔術は複雑すぎると言いますが、その通りでしょう。さまざまな要素を含んでいるので複雑です。なので意味が分からないという結論は妥当のように思えます。でも魔術は紀元前から存在していて、時代ごとに適応しながら存在しています。そして現代でも世界中に広がりだしています。

私たちに意味が不明でも無視できません。それに意味がないとは断定できないでしょう。世界には支配者と被支配者の圧力が絶えず存在しまます。被支配者たちは独自の生活文化を創出してきたのです。支配とは制度的なものであり、制度は世界の一部に過ぎません。

現代の至る分野で魔術を扱い始めたという事実は、制度の限界があからさまになってきた社会的事実と無関係ではありません。固定化する社会階層、経済的な抑圧など例を挙げるまでもないでしょう。

それでも、これからもよりよく生きるために、既存制度以外の方法を必要とするのであって、それが世界中で増えてきている魔術・魔法を復興する人たちの原動力なのです。